孫文の片腕、陳其美

 陳其美(1878‐1916) 宋教仁とともに孫文の片腕として辛亥革命に尽くした政治家。二人とも袁世凱が送った刺客に暗殺された。

1916年5月18日、陳其美は上海フランス租界の山田純三郎の家にいた。山田は後に雑誌「改造」に「ちょうどその時刻も外から帰って来た。二階に上がり泊まり込んでいる胡漢民と碁を打っていた。そこへパンパンとピストルの音だ。陳其美はコメカミをやられ、家の女中が耳をかすられて、抱いていた二歳の女子民子をたたきの上におとして、その子は未だに気が変になることがある」と書き、「これで第三革命と吾々が名付けるものが幕を閉じた」と付け加えた。

 刺客を送った袁世凱は翌月病死した。1カ月生き延びれば、中国革命の行方は変わったかもしれなかった。

 陳其美は浙江省湖州府(現在の呉興区)の商家に生まれ、1906年に日本に留学し、蒋介石と出会った。中国同盟会に加入し、清国留学生のために東京芝に設立された東斌学堂で軍事を学んだ。

 2年後、帰国して、浙江省や北京、天津などで同盟会支部組織を立ち上げるなど頭角を現した。1909年には浙江省で蜂起を計画したが失敗。1910年、上海に戻って革命派の新聞「中国公報」「民声叢報」を立ち上げる一方、青幇など地下組織との関係構築に努めた。 1911年10月10日の武昌起義に呼応して、翌11月3日、上海で蜂起し、3日後には滬軍(上海軍)都督に担ぎ上げられた。

 上海軍は12月、江蘇省、浙江省の革命軍などとともに南京になだれ込み、清国軍を制圧した。 当時の革命軍は武昌派と上海派に分かれ、誰をリーダーとするかで対立したが、陳ら上海派が優位に立ち、アメリカにいた孫文を南京に迎え入れることとなった。翌年1月1日、孫文は中華民国の成立を宣言し、自ら臨時大総統に就任した。

 1911年3月、袁世凱が臨時大総統に就任し、陳は工商部長に就任したが、まもなく辞任した。  1912年8月、中国同盟会を中心に国民党が結成され、翌年3月の国会選挙で圧勝したが、国民党の実権を握っていた宋教仁が暗殺され、袁世凱の独裁が始まった。

 1913年7月の第二次革命では陳は再び上海討袁軍司令官となり、上海独立を宣言した。しかし、9月に第二革命は失敗し、日本への亡命を余儀なくされる。 陳其美が歴史にその役割を残したのは、後に国民党を率いることになる蒋介石を見出したことである。日本で出会った二人はその後も信頼関係を築いた。

 1911年の上海蜂起で、帰国したばかりの蒋介石は陳に命じられて杭州方面の革命軍決死隊に参加し、初陣を果たし、直ちに滬軍第二師第五団の団長兼軍事顧問に命じられた。第二革命でも蒋介石は第五団の団長として上海蜂起に参画し、孫文の眼にとまることとなった。

 1914年、孫文が再起を画して日本で起こした中華革命党では陳は総務部長として実務を取り仕切った。中華革命党は、中国国内で東南、東北、西南、西北の4つの革命軍を編成、陳其美は東南軍司令官に任命され、上海での反袁活動に力を注いだが力及ばす第二革命は失敗した。

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