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第121回夜学会「山尾志桜里の立憲的改憲を読む」

11月16日(金)の夜学会のテーマは「山尾志桜里の立憲的改憲を読む」です。
時間は午後7時から。 場所ははりまや橋商店街イベント広場。
講師は伴武澄

この本は元法制局長官や憲法学者ら7人との対論をまとめたもので、安倍晋三首相がもくろむ改憲に言論で挑むという試みで、読みごたえがある。安倍首相の改憲論の中心は9条であるが、自民党はこのほかに参院の一票問題、教育無料化など国民に対するアメとムチをちりばめた草案を用意している。僕たちは平和憲法のもとで教育を受け、戦争をしない唯一の国民として育ってきた。それを「普通の国」に戻そうというのいうのが自民党の方向である。憲法改正は国民投票に付されるため、国会で圧倒的多数を得ている与党であっても国民投票で過半数を得なければ改憲はできないが、国民の一人としてこの議論に積極的に関与していくべきだと考える。憲法に対する頭と心の整理をしておくことも国民の義務ではないか。そんな議論を高知からスタートさせなければならない。夜学会の議論は121回目に入る。そもそも夜学会を始めた動機が、もう一度高知から自由民権の議論を起こそうというところにあった。山尾志桜里さんが投げかけた議論を市民の立場から検証していきたい。

清末の大陸風物を探知した東亜同文書院卒業生

 東亜同文会が南京に学校をつくったのは一九〇〇年五月。翌月、義和団の乱が起こり、一九〇一年に上海に拠点を移して東亜同文書院と改称した。列強の中国進出に対抗して「支那の保全」を掲げた東亜同文会であったが、旗揚げ直後から、清朝の政治的混乱や連合軍による北京占領など列強の軍事力を目の当たりにすることになる。一九〇〇年、教員として南京にあった山田良政はまもなく、孫文の革命に合流し、一〇月、広東省恵州で戦死した。 東亜同文書院は、中国事情に精通した人材を育成する目的で設立され、終戦まで上海にあったが、その活動でユニークだったのは卒業大旅行だった。「大旅行誌」の踏破録に「外人の跋跡稀なる内地数千里外の民物情況を探り及び各要津の紛錯せる機微を開き、其の政治経済商勢の詳悉を探知せん」とその目的を掲げた。この卒業大旅行が始まったのは第五期生から。満州から天津、長沙、広東など七方面、六―八人一組となって貧乏旅行を敢行した。
この卒業大旅行は「調査旅行報告書」と日記風の「大旅行誌」としてまとめられた。当時の中国の実情を伝える貴重な資料だった。今回は「大旅行誌1」から約一一〇年前の中国(清国)の実情の一端を紹介したい。  ◆南船北馬  一九〇五年から五年間、清国の鉄道顧問となった原口要氏の「中国鉄道創業史」によると、辛亥革命時、中国の鉄道はロシアが敷設した満州の鉄道を例外として、まだほとんど整備されていなかった。鉄道は大都市間を部分的につなげていただけであり、学生たちにとってそれこそ南船北馬を地で行く旅だった。  北方の旅には驢馬(ロバ)と騾馬(ラバ)が随所に登場する。また騾馬に荷車を引かせた中国轎(かご)もよく利用したようだ。ただし金持ちや高官が乗るようなものではなく、辻々で客待ちをしている貧相な乗り物だった。田舎の壊れた道を通行するには随分と重宝したようだった。 旅行で最も困ったのは、宿の設備がどこもでも形ばかりで、非常に不完全なもの、且つ不潔を極めたもので、到るところで蟲(南京虫)や虱(しらみ)に悩まされた。食物は非常に粗悪で、到底堪えられるものではないことがそれぞれの報告に共通している。
南方の旅では船が中心だった。上海―漢口には立派は客船があり、揚子江の南はほとんど水運でつながっていたことが報告されている。  ◆ダルニーと山東苦力  山東半島から満州に渡った学生たちが目の当たりにしたのはロシアが築いた大連の町の偉容だった。まず桟橋の巨大なる様に驚く。「長春紀行」には「長さ二百間幅四十間小なる半島ともみまがう」といっている。町は扇型で、ロシア人によって造成された後、日本によって改修されたものだが、「ああこの苦心の果、心血の凝を見るにつけ之を我国に引渡して遠く北満に退かざる可からざるに到りたる時の露人の心理如何なりけむ」と憐れんでいる。一九〇五年、日露戦争で日本がロシアから割譲された地で、すでに町の呼称は大山通、乃木町、美濃町、伊勢町など陸軍の将軍名や日本の国名がついていた。大連の呼称そのものについても「元来清名を青泥窪と称し、ロシアが経営してダルニーと称し、皇軍の手に帰するや大連と改称せらる」と説明を加えている。 清国のほとんどの都市は旧来の構造で、近代都市はイギリスがつくった上海など数少なかった時代に学生たちは度肝を抜かされたに違いない。 次に驚かされたのは山東省から渡ってきた苦力の姿だった。「年々満州に入る数約二十万」。満州はそもそも「清祖興起の地にして清朝政を支那全土に施すや特に此地を以て満族の根拠地と為し清朝の藩屏たらしめんと欲して住民は主として之を満州人に限らしめん事を計り令を発して漢人の出入りを禁ぜり」という地だった。しかしロシアは三国干渉によって大連・旅順を手に入れ、義和団の乱のどさくさにまぎれて満州全土を支配した。清国が満州支配の力を失ってから、山東省の人々は禁制を犯して次々と満州に渡り「今日満州の商工界の覇者は山東山西等の人民に帰する」「シベリア鉄道東清鉄道の如き全部これら山東苦力の労役に依りて竣成したるものなり」という様相となったのだ。 日本を含めた列強の中国侵略は学生たちの眼にどう映ったのだろうか。満州一帯に広がるコウリャン畑を眺めつつ、清朝の故地である奉天の宮殿に入り、かつて版図を誇った帝国の盛衰を心に刻み込んだに違いない。 ◆江南の日本人  「浙贛湖広旅行記」には七月、上海を出発、杭州を経て銭塘江を遡行し、長沙に到る五千里(一里=約五百キロ)の船の旅が記録されている。銭塘江は富陽から富春江と呼称が代わる。彼等が見たものは「一帯の地黄土にして桑樹を植え、樟樹多き」風景だった。樟樹はクスノキで樟脳の原料として幕末から日本の有数な輸出商品である。船主との会話は標準語が通じなかったため筆談も交えたようで「倭寇侵略の跡、呉の地、発音邦語に近し。二をニ、九をキューと発音す」などと記している。貧乏学生の旅は、厳州では「知府に歓待せられ礼砲を以ての歓迎」されるなど戸惑う場面もあった。  やがて富春江は蘭江となり、さらに分岐して衢江に入ると衢州に到る。「山河の景致愈勝り行く水は青し」。浙江省の山間部は渓谷で水もきれいだった。風がなくなると帆をたたんで船を岸辺から引くことになる。衢州は福建省、江西省、安徽省、浙江省の貨物の集積地。当時は浙江省の樟脳によって栄えていた。学生達を驚かせたのはそんな山間の地に「三五公司」という樟脳を扱う台湾系日本企業の出張所があったことである。彼らは三五公司の客となり、久々に南京虫の襲来から逃れることになる。三五公司の樟脳取り扱いは「年額十万斤」というからなかなかのものだ。 当時、大陸での日本企業の進出は福建省が突出していた。別の大陸の海岸伝いに広州までたどる旅行記には「寧波の在留外国人は凡そ二百人、最も多きは日本と仏国。日本人は売薬、雑貨商、技師、職工多く、仏国人はほとんどカトリック宣教師」と記している。また福州では「在留外国人七百余のうち日本人は二百六十人。但し日本人と称するものの内には台湾国籍を有する支那人過半数を占めたれば真に日本人と称すべきは百二十人にすぎない」。厦門では「日本人、一千三百人内一千人は台湾籍なり」。興味深いのは「福建省通貨は日本旧円銀最も多く行わる」と書かれてあることで、台湾を通じて、福建省を中心に日本の経済圏に属していたということである。 付け加えるならば、厦門と汕頭が東南アジアへの移民の出身地で、「一九〇六年統計では台湾と南洋行きの移民は五万八六二六人」「無一文の貧民も出稼年乃至十数年の後はみな相当の資産家として帰郷す、此の地方一代富豪の多きは全く此故に外ならず」と特記している。
数百ページにわたる大旅行記の中から、個人的に印象的な部分を書き出してきたが、二年後には辛亥革命が起きて清朝そのものがなくなり、中国大陸は軍閥の割拠する中、日本を含めた列強による浸食が進むことになる。次回以降、東亜同文書院の学生が見た生身の大陸情勢をお伝えしたい。(萬晩報主宰 伴 武澄)

孫文と津軽の山田兄弟

          霞山会主催 津軽シンポジウム  2018年4月28日
萬晩報主宰 伴武澄  ◆はじめに  明治維新が成功したのは、アメリカで南北戦争(1861-1865)があり、ヨーロッパで普仏戦争(1870-1871)があったおかげではないかと考えることがある。列強が東アジアに殺到し、虎視眈々と権益を拡大させていた時代に、列強の介入もなく、明治政府を立ち上げられたのは、東アジアにおける力の空白がもたらしたからではないだろうかということである。
 この間、日本にとって最大の脅威はロシア一国であった。1855年の日露和親条約で、江戸幕府は初めて外国との国境画定を余儀なくされた。千島列島の択捉島と得撫島の間に国境線が引かれたが、樺太においては国境を設けず、これまでどおり両国民の混住の地とすると決められた。それまで“化外の地”という概念であった蝦夷地(北海道)を含めた北方の地の所管が大きな課題として表れてきたのである。  明治に入っても朝鮮半島をめぐり日本とロシアの確執は続き、日清戦争に続き日露が直接戦火を交えることになる背景には19世紀から20世紀初めに到るロシアによる急進な南下圧力が大きく影響している。  我々が学んだ歴史はペリーの来航によって日本が開国したことになっているが、ロシアはその以前に度々、日本に使節を派遣している。最も有名なのは漂流民、大黒屋光太夫を伴って1791年に根室にやってきたプチャーチンである。1806年には同じく漂流民をともなったレザノフが長崎に来航し通商関係を求めるなど、幕府にとってロシアの南下が最大の外交問題となっていた。  ロシアの南下に危機感を高めた幕府は松前藩に依存していた蝦夷地の支配を、幕府直轄とし、津軽藩や南部藩に警護を命じている。もともと北東北はアイヌの居住地で、アイヌを通じた北方貿易も盛んだった。
青森へ何度か足を運んで、津軽など北東北はロシアの脅威を歴史的に最も体感していた地域なのではないかと思うようになった。
青森は津軽海峡をはさんで、蝦夷地とヒトとモノの交流が盛んで、黒龍川流域のオロチョンなど山丹交易に象徴されるように蝦夷地を含めた北方の地は津軽にとって生命線のひとつだったと考えれば分かりやすい。  つまり津軽が明治以降、新しい思想を受容してきたバックグランドとして、歴史的に“外国”に接し、強烈な危機感を内在していたという歴史的事実を見逃してならないのである。内田樹は『日本辺境論』の中で日本自身を“辺境”と呼んでいるが、日本の辺境が日本歴史にもたらした役割を今一度考えなおす時期がきているのではないだろうか。  
◆山田良政・純三郎兄弟  弘前市の浄土宗の古刹、貞昌寺には孫文と蒋介石によって書かれた石碑がある。それぞれ山田良政、純三郎兄弟に贈られたものだ。1971年まで中華民国と国交があった時代が、新大使が赴任すると必ずこのお寺にお参りするのが慣例になっていた。国交断絶後、台湾と弘前との関係は疎遠になっていたが、90年代に民間の孫文研究家、寳田時雄氏が、孫文による山田良政の碑文を拓本にとって台湾政府に届けたことがきっかけとなり、双方の往来が復活した。
日本の自治体として台湾との結びつきが強いのは金沢市と弘前市が双璧である。金沢市は昭和初期に台湾南部に当時としてアジア最大のダムを建設し、現在も地元農民から慕われる八田與一の出身地が欠かせない。弘前市は山田兄弟の孫文革命への貢献に加えてリンゴの輸出が大きく影響している。青森のリンゴの台湾への輸出が急増したのは1990年代。一昨年には150億円近くに達した。2016年の東奥日報の企画記事では「山田兄弟が台湾との結びつきの立役者」と書いている。
 山田良政と純三郎は宮崎滔天や萱野長友らとともには、孫文革命の烈士として中華民国の歴史に名前を刻まれている。この中で実際に銃弾の下をくぐった日本人は良政と萱野だけである。そして自らの命まで失ったのは良政だけである。
山田良政は1900年の恵州起義で捕らわれ、最後まで「清国人」であることを主張して、銃殺された。孫文の革命で死んだ最初で最後の日本人といっていい。1918年、広東で中国国民党を“再立ち上げ”した後、自ら揮毫して良政の遺族に贈ったのがその石碑だ。  山田良政が中国に興味をもつきっかけは、幼少時から慕っていた陸羯南の影響だといわれている。上京した陸羯南が新聞日本を発刊し、アジアにおける日本の役割を強く打ち出したことは、関門を問わず明治の知識人に大きな影響を与えた。良政陸の勧めでまず北海道昆布会社に就職。上海支店勤務となって中国とのかかわりがスタートした。ちなみに昆布は江戸時代から長崎を通じた中国貿易の主力商品の一つだった。
 日清戦争では上海で習得した中国語を駆使し通訳として従軍した。戊戌の政変で失敗した梁啓超を日本に脱出させた一団に加わったこともあった。
日清戦争と日露戦争をはさんだ時期はアジアの歴史にとって大きな転換点となった。日本が大国であった清国とロシアを破ったこともそうであるが、アメリカが米西戦争を起こし、グアムとフィリピンをアジアへの橋頭保として領有したのが1900年。同じ1900年、深刻では義和団乱による外国人排除の行動がきっかけとなり、北清事変が起き、列強の軍隊が首都・北京を占領。ロシアは事実上、満州の支配権を握った。つまり、長年にわたる清朝の支配が屋台骨から揺らぎ、列強による中国大陸の分断支配が本格した時期でもあった。 良政は1899年に一時帰国していた時、東京で孫文と出会い、革命への熱情に心揺さぶられ、急速に接近する。たった2年足らずの付き合いで革命にのめり込み歴史にその名を遺したのだった。
1900年、南京同文書院が設立されたとき、山田良政は短期間ではあったが教授として参画した。当時、孫文は革命のため武器と資金を切望していた。良政は台湾の後藤新平を頼り、武器供与と資金協力を依頼した。 寶田時雄氏が良政の甥で蒋介石に重用された佐藤慎一郎からの聞き書き「請孫文再来」によると
 山田良政は伯父、菊地九郎との縁を唯一の頼りに台湾民生長官であった後藤新平を訪ねた。孫文と山田は初対面にもかかわらず、こう切り出した。 「武器とお金を用立てて欲しい」
 革命事情と人物の至誠を察知した後藤はとやかく言わなかった。 「私が君たちの革命を助けるのは、君たちの考えが正しいからだ。しかしそれが成功するかしないかは将来のことなんだ。あなたのような若僧にどこの国に金を貸す馬鹿があるか。それは無理ですよ」 「しかしなぁ。金が無かったら革命はできんだろう。武器のほうは児玉将軍が用意しようといっている。しかし資金のほうだが、事は革命だ。返済の保証もなければ革命成就の保証すらないものに金は貸せない」 「どうしてもというなら対岸の厦門(アモイ)に台湾銀行の支店がある。そこには2、300万の銀貨がある。革命なら奪い取ったらいいだろう。わしはしらんよ」
 この武器供与計画は日本の政権が山形有朋から伊藤博文に変わって頓挫。恵州起義は失敗に終わる。1900年という年は北方で義和団事件が起きて列強による軍事的介入が強まる引き金となった。ロシアは自国民保護を理由に満州を軍事占領、事実上“領土化”した。日本政府は一時期、孫文への協力を通じて大陸南部への影響力を強めていく姿勢であったことは確かなようだ。

 ◆山田良政石碑建立に際しての哀悼文
 君の兄弟は、ともにふるって嘗って力を中国の革命事業に致す。しかるに君は庚子(1900年、明治33年)。恵州の役を以て死す。後十年にして、満州政府は覆える。
 初め余は乙未(1895年明治28年)、粤(広東省)を図りたるも威らざるを以て海外に走る。(孫文は、11月12日神戸着)。
 すでに休養すること 、党力復び振るう。余は乃を鄭士良をして、 を率いて先ず恵州に入らしむ。余は日本軍官多人と偕に、香港より内地(中国大陸)に潜注せんとす。(山田)君は、実に随行せんとす。巳は 密告し、陸に登を得ず。乃ち復び日本に往き、転じて台湾に渡る(9月28日、台湾基陸着)。
時の台湾總督児玉(源太郎)氏は、義和団乱を作し、中国の北方は無政府状態に陥りたるを以て、則ち力めて余の計画に賛し、且つ後援を為すことをもかぶと允す。
余は遂に鄭士良をして、兵を発せしむ。士良を率い、出て新安、深 を攻め、清兵を敗り、 その械(武署)を獲る。龍図・淡水・永湖・梁化・白芒花・三多祝などの処に転戦し向う所みな捷つ。遂に新安・大鵬を占領し、恵州海岸一帯の沿岸の地に至る。
以て余と幹部人員の入ることと、武器の接済(供給救済)を待つ。  図らずも恵州の義師(義兵)発動して旬日にして、日本政府更換し、新内閣總理伊藤(博文)氏(10月19日、新内閣成立)の、中国に対する方針は、前内閣 (山県有朋總理)と異なる。則ち台湾總督を禁制して、中国革命党を通じることを得ず。また武署の出口(輸出)及び日本軍官に投ずる者を禁ず。
而して余の内渡(中国大陸潜入)の計画は、之が為めに破壊す。
遂に(山田)君と同志数人を遣わして、鄭軍に往きて情形と報告させ、その機を相して便宜に事を行わしむ。(山田)君は間道して恵州に至りしも、巳に事を起こしてより後三十 日に在り。
士良の部る(統率する)ものは、連戦月。幹部軍官及び武器の至るを渇望すること甚だ切なりき。
忽ちにして君の報告する所の消悉(消息)を得。
巳むを得ず、 を下して解散し、間道して香港に出ず。随う者なお数百人。  しかるに君は路を失い切なるを以て、清兵の捕らえる所と為り、遂に害に遇う。外国の義士にして、中国の共和の為めに犠牲となりし者は、君を以て首めとなす。論ずる者は、みな恵州の功無くして、非戦の罪を曰う。
日本政府をして、やはり前内閣の方針を守らしめなば、則ち児玉氏、中変(途中にして変更)するに至らざれば、即ち我が為めに援助せず。しかし武器の出口(輸出)及び将校の従軍者を禁制と為さざれば、則ち余の内渡(中国大陸に渡る)の計画は破れず、資けるに武器を以てし、また兵を多く知る者之が為に指揮せ んか、まさに士気(高揚し)、鼓行(堂々と進軍)して前まん。 天下のこと
しかも革命軍はして、この挫折無かりせば、則ち君は断じて以て不幸にして (殺さ )せらるるに至らざること、抑も論を持たず。然るに君は、曽ひ政府の 厭(革命軍に対する好悪の態度)を以て意と為さず、命を みて険を冒す。
死すると も辱じず。以てその主義に殉ず。 によくなし難くして貴ぶ可き者なり。
民国成立して七年。君の弟山田順三郎始めて君の骨を以て帰りて葬る。
今また君の為めに石に み、以て後人に示す。
君の生平(平常)の (正しい道にかなった行い)は、君の親族交遊、よく之を述ぶ。
余の言を■と無し。余は君を重惜(非常に惜しむ)す。故にただ君の死に至りし本末を挙げ、表わして之を出すのみ。
更に祝を為して曰く。願わくば斯の人の中国人民の自由平等の為に奮闘せし精神は、なお東(日本)に於て嗣ぐもの有らんことを。  ◆山田純三郎と孫文  山田純三郎は良政の8歳違いの実弟。同じく東奥義塾を卒業後、室蘭炭礦汽船に勤め、次兄晴彦とともに上京して青森のリンゴ販売をしていた。本当は札幌農学校に行きたかったが果たせなかった。その後、良政の薦めで南京同文書院に入学、同文書院が上海に移ってからは教授となった。1900年8月、孫文が兄良政を訪ね、恵州起義計画を相談した時、純三郎は初めて孫文に会った。日露戦争では通訳として従軍。1907年、東亜同文書院に復職したが、やがて満鉄に入社、三井物産上海支店内に満鉄駐在員事務所を開設。孫文革命を支援するようになる。  純三郎に対する孫文の信頼は絶大で、純三郎も常に革命派の傍らにあった。孫文の晩年、神戸女学院で孫文が最後の演説「大アジア主義」を披露した時も同行し、張作霖との会談や吉田茂奉天総領事との会談を準備するなど最後まで孫文に尽くし、1925年、孫文が息を引き取る際にも立ち会った。
 戦後、台湾に渡った蒋介石を訪問した日本の国会議員団が、終戦時に「徳を以って怨みに報いる」と感謝したところ、「私に礼はいらない、あなた方の先輩に言ったらいい」と、盟友山田をはじめとする辛亥革命に命がけで闘った日本の先覚者を、あな た方日本人は忘れてはならないと議員を諌めている。


◆アジア主義の系譜  アジア主義という概念ほど定義が難しいものはない。竹内好は「たとえ定義は困難であるにしても、アジア主義と呼ぶ以外によびようのない心的ムード、およびそれに基づいて構築された思想が、日本の近代化を貫いて随所にしていることは認めないわけにはいかない」(竹内好編集『現代日本思想体系9アジア主義』)と言っている。
 学生時代から折に触れてアジア主義を素材に取材・執筆してきたが、明治期の自由民権運動についても定義が難しいと感じている。双方に共通しているのは、薩長を中心として藩閥政治への反発、統一国家の誕生によって生業を失った旧武士階級の不満などで、列強によるアジア進出などに対して、「アジアとの連携」がうたわれた。
 アジア主義の原型とされた樽井藤吉著『大東合邦論』(1893年)がある。ユニークなのは明治期において、日中韓の連邦論を提起していたことである。アジア主義の源流はそれよりもずっと前、1980年、長岡護美や曽根俊虎らによって興亜会が結成され、後に東亜同文会に合流する。興亜会には清国公使などの中国の有力者たちも関与した。長岡は熊本の細川斉護の六男で外交官、後に貴族院議員となった。曽根は米沢藩士に生まれた海軍士官。日清の理解を深めるために1880年に中国語学校を開設した。
 アジア主義の特徴は中心がないことである。かつて霞山会の「Think Asia」に「目薬が奇縁となった日中交流史」というタイトルでエッセーを書いたことがある。日本のジャーナリストの草分けの一人、岸田吟香が、「精奇水」という目薬を売り出した。横浜にあったヘボン博士の「和英語林集成」の編集に協力し、同博士から点眼薬の処方を教えてもらった。岸田は1877年、銀座に楽善堂を開店、1880年には上海そして漢口にも支店を設けて大陸に販路をひろげたが、この楽善堂こそは荒尾精ら大陸に関心を持つ人々の集まる場所となり、中国の生の情報拠点となった。
 荒尾精は1890年、中国貿易の実務者を養成する日清貿易研究所を上海に設立した。興亜会も日清貿易研究所も岸田の援助なくしては成り立たなかった。明治期のアジア主義者のパトロンの一人は岸田だったといっていいのかもしれない。
 漠然としたアジア主義のネットワークに参画したのが、頭山満、犬養毅、内田良平、宮崎滔天、萱野長友といった面々である。山田兄弟はアジア主義者として描かれることはない。心情はともにしながらも、孫文革命にあまりにも傾倒しすぎていたからなのかもしれない。行動の軸足は日本ではなく大陸にあったからであろう。
 山田兄弟とともに、孫文革命の銃火をくぐった萱野長友は1940年に『中華民国革命秘笈』を著す。1925年、孫文の死後、胡漢民が「君しか革命の歴史を書けない」と言われ、著作を始めたが中座していたものである。
 1895年、日清戦争後に広州で革命起義から始まり、幾多の失敗を繰り返しながら1911年の辛亥革命に到る孫文革命の意義と経緯を克明に記している。孫文の革命については中国語にも翻訳されて広く読まれた宮崎滔天の『三十三の夢』が有名だが、革命の背景をこれほど詳しく記したものはない。この間、数十人にわたる日本人がそれぞれの場面で重要な役割を果たしていることが分かる。
 『中華民国革命秘笈』については定年後、高知に帰省してからその存在を知ったのだが、『「中華民国革命秘笈」の研究』という研究書が久保田文治氏によって高知で出版されていることを付け加えておきたい。

 ◆付録・キリスト教とリンゴ  明治になって日本各地にいくつかのキリスト教団(バンド)が形成された。有名なのは、札幌バンド、横浜バンド、熊本バンドである。札幌はメソジストのクラーク博士の教えのもとに内村鑑三や新渡戸稲造らがいた。不思議なことに国立の札幌農学校はキリスト教教育を許していたことである。横浜は長老改革派のヘボン博士を中心に英語学校を経営、弟子に岸田吟香らがいた。ここで日本初の和英辞典「和英語林集成」が編纂された。熊本勢は熊本洋学校の生徒34名が、米国人教師L.L.ジェーンズの影響を受けて、自主的に奉教趣意書に署名してプロテスタント・キリスト教に改宗した。海老名弾正、徳富蘇峰ら多くは後に京都に同志社を設立した新島襄らに参画した。
 津軽では藩校を継承した東奥義塾の菊池九郎の要請でアメリカからジョン・イングが英語教師として赴任、後に青山学院を設立する本田庸一らとともに弘前バンドと呼ばれた。山田良政も東奥義塾で学び、イングの影響を受けた一人である。津軽でも同様だった。新渡戸稲造が『武士道』を書いたように、質素、倹約といった新教の教えが武士道にあった質実剛健といって考えと似通っていたからだろうといわれている。  古来日本にもリンゴはあったが、食用ではなく、観賞用として栽培されてきた。食用の洋リンゴは明治以降、日本に持ち込まれたもので、一説によるとイングらが持ち込んだものとされ、その後、士族を中心に栽培が始まり、弘前の農業を支える一大産業に発展する。山田純三郎が東京で一時、リンゴを販売していたことは奇縁であろう。


【参考文献】 岡井禮子『孫文を助けた山田良政兄弟をめぐる旅』彩流社 寳田時雄『請孫文再来』
萱野長友『中華民国革命秘笈』 久保田文治『中華民国革命秘笈研究』など

117回夜学会 「吉里吉里人」にみる独立国家の世界

 40年も以上前のこと、井上ひさしは「吉里吉里人」という長編小説を書いた。長編ながら東北地方で起きたたった2日間の独立騒動を描いた。藤原時代、東北地方は金の宝庫だった。その当時の埋蔵金があることを前提に、金兌換性を持つ通貨イエンの強みを基礎に、エネルギーと食糧の自給自足が成り立つならば、どんな地域も国家から離脱して思い思いの国を作ることが出来ることを示したかったに違いない。以前、国家とは何かというテーマで夜学会を行ったことがある。国とは国境で、隣の国が承認してくれれば、もはや国家は成り立つ。吉里吉里人の背景にはひょっこりひょうたん島があるのだ。こちらは動く国家である。 ある朝、人口4000人の吉里吉里村は日本国から独立を宣言した。旅人は突然、パスポートの提示を求められ、外国人は外国人登録所への出頭を求められた。この吉里吉里国の住民以外は日本人も含めてすべて外国人となってしまった。円は使えず、イエンへの交換を求められた。  イエンは金兌換券である。吉里吉里国の面白みは1971年のアメリカによるドルから金への兌換停止に対するパロディから始まる。藤原三代の時代の埋蔵金伝説が小説上で真実となったことから吉里吉里国の攻勢が始まる。裕福な国家は国民から税金を取る必要がなくなった。つまり非課税国家である。それを知った名だたる世界の多国籍企業が相次いで吉里吉里国に法人を設立する。独立以来、イエンの相場は2日で5倍にもなる。  日本国は自衛隊を国境に待機させたが、何百もの多国籍企業が登記を終わらせると、手も足も出せなくなる。
吉里吉里村はもともと農村地帯であるから食糧は自給できる。大型の地熱発電所もあったからエネルギーには一切困らない。もちろん北上川に接しているから水にも困らない。食い物と水とエネルギーさえあれば、だれでも自活できる。  吉里吉里国にはどこの国にもないユニークは発想がある。まず国会。議事堂は建物ではない。動く村内循環バスの中で議会が開催される。閣僚も議員もバスに乗車しているから、国内の動きは手に取るように分かる。そもそも人口4000人だからほとんどが知り合いなのである。  空港はない。しかし北上川に流れる大きな湖が国際空港となっている。つまり水上飛行艇が国際便も離発着できるようになっている。  この国の国立病院はノーベル賞クラスの医師が世界中から集まっていて、世界最先端の医療技術を誇る。看護婦長はナイチンゲール賞を3回も取ったことのある人物で、彼女を慕って優秀な看護婦が世界各地からやってくる。もちろん治療費は高額だが、金持ちから多くとる発想を持っている。治療費は年収の4分の1という発想も面白い。  この病院のもう一つの顔は臓器移植である。脳死状態の臓器を永久保存させる技術を確立させ、それを保存させてあり、ありとあらゆる臓器移植に対応できるようになっている。

シニアカーで町づくりを!

 先週、金曜市にシニアカーでツーリングに来た一団があった。南の風診療所に通う高齢者だった。それをみて次々とひらめきがあった。まず、かっこいい。時速6キロまで出るので人間の速足ぐらいのスピードが出る。ちょっとコンビニまでにちょうどいい。何もシニアに限定しなくとも市民や観光客の足代わりにもっと使われていい。 問題は価格、スズキの製品が一番多く売れているそうだが、35万円もする。介護用品として認定されているからで、性能的にみて補助動輪付自転車並みだからもっと安くつくれるはずだ。 試乗がしたくて、診療所のスタッフにお願いしたら、18日に実現した。乗り心地はすばらしい。「あんなもの危ない」としきりに言っていた60歳代の男性は何度も乗って「こりゃえい」とご満悦だった。自動車免許返納者に安く乗れる制度をつくったらいいというアイデアもすでに出ている。シニアカーで渋滞がおきるくらい普及したら面白い街づくりができるかもしれない。 英語ではmobility scooterというらしい。日本の場合、道交法で「原動機を用いる身体障害者用の車いす」と位置づけ、車体の大きさは長さ120センチ、幅70センチ、高さ120センチ以内。歩道を走るため速度も6キロが最高となっている。イギリスの場合、制限速度は道路は8マイル、14キロ。歩道はその半分の4マイル。お国によって違うのだ。 夜学会で話をしたら、とにかく一台購入してみんなで乗り回してみようということになった。ホテルでのレンタルは実現できそうだ。価格は35万円と安くはないが、1日1000円であれば1年で元がとれる。

ハイカラだった1970年のラオス

  一九七〇年から二年、青年海外協力隊員としてラオスの首都ビエンチャンで日本語を教えた桑原晨さんに東南アジアの今昔についてインタビューした。、桑原さんは七八年からアジアに特化したユニークな出版社「めこん」を経営する一方、アジア各地との交流を進めている。

 東西南北回廊の拠点  桑原「ラオスはいまだに農業国。日本のアデランスとか外資も来ているが、自前の工業はない。輸出できるのは電力と木材ぐらいかな。人口が六〇〇万人と国として小さいのと、内陸で海がないのだが、最近、中国の雲南省やベトナムのダナンと大きな道路でつながり、東西南北回廊というか、インドシナを結ぶ交通路のすべてがラオスを通るようになった。物流の中心ということだ。経済発展に結びつくのか分からないが、少なくとも内陸国として昔マイナスだったことがいまではプラスになってきている」
 伴「タイ、ミャンマーを含めて、桑原さんが初めてアジアの地を踏んだ時から、まもなく半世紀を迎える。桑原さんの目から見たラオスの変化を語ってほしい。他の東南アジアの国々と比べてラオスが違うのは、革命があったことだ。それまで王様がいたのが、ベトナムの影響を強く受けていたパテト・ラオ(ラオス愛国戦線)が首都ビエンチャンを制圧し、国王は退位を求められ、社会主義体制が成立した」 桑原「一九七五年の革命まで、ラオスはフランスやアメリカの影響を受けていて、ある意味、ハイカラなところがあった。ビエンチャンしか知らないが、いまより賑やかだった気がする。まあ、僕らは学生時代も貧しかったから、ピザなどはラオスで初めて食べて、こんなうまいものがあるのかと思った。同僚と二人で一軒家を借りて、町中に住んでいたが、水道も電気もあり、あまり不便はなかった。歓楽街も賑やかで、サイゴンほどではないが、ベトナム戦争景気のあだ花的雰囲気があった。一方で貧しさもあった。僕らが通ったバーの女の子に住所を教えろと言ったところ、彼女は字が書けなかった。弟はお寺に丁稚に入っていた。食うために女は飲み屋に男は坊主になっていた。お寺はそんな社会のセーフティーネットだったのかもしれない。それでもラオスの印象はとにかく穏やかだった。」  革命で一〇年以上遅れた変化 桑原「一変させたのは、革命だ。革命政権は西側の影響を一掃しようとした。それまで外国人とつきあっていたこともマイナスになり、多くの金持ちや知識人がアメリカやフランスに逃げてしまった。今になって、当時の日本語の生徒たちを探すのが難しいのは、彼等が難民となって国外に逃げてしまったからなのだ。パテト・ラオはベトナム国境の解放区にからやってきて、西洋と関係のあった人々をはじき出してしまった。国王も解放区に連れ去られ、まもなく死んでしまった」
「八〇年代から九〇年代の前半までラオスに入るのは難しかったので、タイとの国境まで行って、メコン川ほとりのホテルに泊まって対岸のビエンチャンをよく眺めたことがあった。ラオスが変わり始めるのは九〇年代後半。ベトナムのドイモイと軌を一にしており、タイやマレーシアより一〇年以上後になった。ビエンチャン郊外に住宅地が広がり、ショッピングセンターや工業団地ができた。昔遊んだ歓楽街は道路が整備され住宅街に変貌していた。僕が住んでいた家の前にあった青空市場もビルになってしまった。人口は二倍になり、人々は確実に豊になっているが、バラックの飲み屋やバーといったいかがわしさがなくなりつつあるのは新宿ゴールデン街がすたれるのと同じ寂しさがある」 売れているタイ語の本  伴「帰国してから『めこん』を立ち上げた。アジアに特化した出版はいまでもめずらしい。最初はアジアの文学を紹介したいと考えたそうだが。それから一番売れた本はなんでしょう」  桑原「最初の本は台湾の『さよなら再見』だった。協力隊に応募したのはただ外国に行きたかったからだけで、アジアに関心があったわけではない。ベトナム戦争にも反戦にも興味はなかったが、やはりラオスの二年で何かが変わったのでしょう。当時は日本の存在が大きくなり、ラオスにとっても経済発展の国というイメージがあった。現実には三井物産が出張所を置いているぐらいで、企業の進出はまだなかった。日本語を学べば、という期待もあったはずだが、革命でつながりが途切れたのは残念。めこんは一九七八年から約三〇〇冊のアジアに関する本を出版してきた。」 「今売れている本という意味では、タイ語とかベトナム語とか、アジアの語学の本。アジアの文学を読む人は全然いないし、歴史書をきっちり読もうという人も少ない。反比例して言葉だけは増えている。中でもタイ語の人気は高い。めこんでも何冊か出しているが、五〇〇〇部は越えており、多くの出版社も手がけている。タイ語は母音と子音が組み合わさった文字で音声の発音記号もあり、日本語とは成り立ちが違うにも関わらず、もはや特殊語学ではなくなっている。タイ語人口は推定で数十万人というからすごい。タイ語の次はインドネシア語、ベトナム語、タガログ語、カンボジア語、ミャンマー語と続く。これは日本だけで起きている現象のようで、みんながぺらぺらしゃべれるわけではないが、相手の国も文化を尊重するということ。日本人がアジアの言語に興味を持つことはすばらしいことだと思う」 ラオス語の先生の母は僕の生徒だった  桑原「僕は今でもずっとラオス語を習い続けている。去年まで教わっていたのはお茶の水女子大の留学生だった。毎年五月にラオス・フェスティバルがあり、見に行ったところ、彼女だけ、腕のしなりとかが上手だった。理由を聞くと母親がかつて舞踊団にいて、ナタシン国立舞踊学校の時代に僕の生徒だったことが分かった。当時、大阪万博が控えていて、ナタシン舞踊学校に臨時で日本語を教えに行っていた。僕は覚えるのは生徒達があまり真面目でなかったことぐらいだが、彼女の母親はしっかりと僕のことを覚えていたそうだ。さらに聞くと父親も一緒にラオスにいた同僚から隣の教室で日本語を習っていたというから奇遇である。四十数年前の僕の日本語の生徒の娘が今、日本に留学していて、僕にラオス語を教えている。革命で途絶えたと思っていた関係が今も生きているのは驚きだ」
「協力隊で何を得たかはよく分からないが、ろくでもないことも含めて間違いなくいろいろ経験させてもらった。僕らも未熟で、日常生活の中であーだ、こーだやっている間にラオスの影響を受けて、段々変わっていった。協力隊で面白いのは、現地での日常生活の中で先進国の人々が普通持っている上から目線の気持ちがなくなることだ。何かるつぼに入って溶けていくような感じがしている。メコン川は、雨期には満々と水をたたえ、乾期には流れが細り、人々は段差を降りて川底に畑をつくる。その営みは初めてメコンを見た昔と変わらない」 (霞山会広報誌Think Asiaから転載)

ユダヤ教の始まり、賀川豊彦「神による信仰」から

 アブラハム、イサク、ヤコブの三代を以て、イスラエル民族は立派に基礎が出来たが、之れは決して肉の歴史ではない。心の歴史である。アブラハムは全く神に依つた生涯を送り、其子イサクの代に至つては、肉に依らず全く霊に依り、柔和なる者が国を嗣ぐとの模範を示し、ヤコブに至つて遂に国民の型が出来た。 ヤコブの貪慾と校滑

 ヤコブは欠点多き人であつた。創世記二十七章から始まるヤコブの記録の半以上は悲しみと苦しみに依つて綯(なはなは)れた波爛重畳の歴史である。彼は先づ兄を押のけて父の業を嗣ごうとした。彼は貪慾であり、又絞滑であった。彼が羊の皮を被り、エサウの真似をしてまんまと父を欺しおほせたことから考へても、彼は人の声色を使ふのが上手であつたと想像される。ラバンの叔父の家にあつた時も、彼は自己の財を殖す工夫を知つてゐた。
 今日ユダヤ人は、世界の天才の半分を出してゐる。アインスタイン、ベルグソン、ワグネル、スピノザの如きは何れもユダヤ人である。又ユダヤ人は眉目麗しく、心が柔和である。斯うした善い半面があると共に、その半面に於ては貪慾な、資本主義的な心が秘められて居た。此の善悪両方面か既にヤコブにあつた。
 併し此の善悪両方面の外にもう一つの血がユダヤ人の血管に流れてゐる。それは、天才的な善の半面が、信仰に依つて悪の半面を打消して行かうと努める苦心である。  野宿の夢

 ヤコブの狡猾は遂に兄エサウを立腹せしめ、弟を殺害せんと企てしむるに至つた。慈しみ深きその母が夫れを憂慮して、ヤコブをスリヤに追ひやつた。ヤコブは数日の旅の後、ルツ(今日のサマリヤのベテル)に着いた。彼は旅の疲れに野宿してゐると夢の中に天に届く梯を天使が昇降するのを見、そして彼が新生に入るならば彼の貪慾、虚偽に満ちた生活を、神は尚且赦し給ふて新しさ出発点を与へ給ふとの啓示を聞いた。夢醒めて彼は大に感謝した。旅路了へて衣食が与へらるならば神の宮を建てる事を誓つた。ヤユブの宗教、換言すればイスラエルの宗教の出発点は、此処から発足する。  エサウ文化とヤコブ文化

 ユダヤ人がアジヤ人種だからとして之を劣等視するのは大なる誤りである。人種学的にも、ユダヤ人は地中海人種と呼ばるゝ白人種で天才の出づる民族である。それはヤコブの子孫である。
 之と共に今日アラビヤに住むマホメット教徒はヤコブの兄エサウの子孫である。彼等は骨格逞しく争奪に秀で、数理学に秀でてゐる。宗教の堕落した時に刺戟を与へたのに此の民族であつた。
 欧洲の歴史は此のヤコブの民族と、エサウの民族の争闘の歴史である。アブラハムの子孫は今日も尚相争ふてゐる。
 兄エサウの文化は基督教文明の堕落した時、コンスタンチノープルを占領し仏蘭西に乗込むほどの文化と信仰とを持つてゐたが、争ひの為めにそのサラセン文明も久しからずして潰れて了つた。  エサウの子孫の文明は始め埃及の北部、地中海沿岸に発達し、スペインにまで及んだ。実際エサウの文明は燦爛たるものがあつた。織物、美術、建築を始め代数学、アリストートルの哲学を保存したのはニサウ文化である。  併しエサウの文化は、換言すればマホメットの文化は、強い一点張りである。美しいあのアラビアンナイトの物語は夫れを説明して余りある。夫等は勇壮といふよりも寧ろ血腥(ちなまぐさ)い物語である。基督教の持つ旧約にはあゝした血腥い物語はない。其処にエサウ文化とヤコブ文化、マホメット教とキリスト教の差異を見出す。  マホメットの歴史は血みどろの歴史である。エサウの文化は強い文明である。  之に反しヤコブはどうであつたか。彼は欠点の多い人物であつた。彼は神に謝さればならぬほど誤つた生活をしてゐた。併し彼はそれを温順しく神に詫びた。
 同じ一神教であり、偶像否定ではあるが、基督教とマホメット教との異る点は、マホメット教は強い事のみを主張するに反し、基督教は自分が悪かつた事を認識する宗教である。換言すればマホメットは一直線の宗教であるが、基督教は一度折れて、再び立直る処の屈折ある宗教である。私達は今までの曲つた生活を曲れりとしてそのまゝ突出すのは余りに残酷だとする者である。(神による信仰)