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全国で沸き立つ100円バス論議の未来


2000年11月17日(金)
萬晩報主宰 伴 武澄 昨年8月25日に「100円で経営が成り立つ長崎の路面電車」というコラムを書いた。長崎市の路面電車は全区間100円。しかも乗り換え自由である。驚きはワンコインというだけでない。黒字経営が続いていて行政からの補助金を一切得ていないということである。

 長崎でなぜ路面電車が100円で採算が合うか。それはただ乗る人が多いからだ。長崎の路面電車は市の形に沿って南北に長く走る。45万人の町で毎日6万に近い人が利用するのだから利用頻度はすこぶる高い。みんなが乗るから料金値上げの必要がない。安いからみんなが乗る。そんな好循環が続いている。

 ●交通体系ががたがたになるので自重してほしい  きょうは100円バスのことを考えたい。3年前、京都のMKタクシーのオーナーの青木定雄さんから100円バス構想の話を聞いたことがある。「公共交通機関が高すぎるから乗らない。乗らないから採算が悪化する」ということだった。長崎の逆である。

 その青木さんが1999年9月に、現行220円の市内路線に100円でのバス運行を申請すると関係者の間で大きな波紋が起きた。大阪運輸局は「京都の交通体系ががたがたになるので自重してほしい」と要請。青木さんは「京都市バスが大幅な値下げをすれば取り下げてもいい」と反論した。

 その京都市が4月から中心部の循環バスを100円での運行に切り替えた。四条河原町周辺の週末の混雑を緩和するのが目的で、あくまで来年3月までの週末だけの試験運行である。利用客があまりに少ないので京都市交通局は10月からは沿線の商店街で買い物をした客への無料乗車券の配布を開始した。

 この循環バスは河原町通り-御池通り-堀川通り-四条通りを結ぶ四角形を運行し、週末のマイカーの流入を抑制するのが狙いとされているが、商店街は河原町と四条に面した部分だけ、ウインドーショッピングをする距離だけにわざわざバスに乗る人がいるはずもない。おかげで青木さんは100円バスの申請を取り下げざるを得なくなり、MKタクシーの京都市での新しい試みはいまのところとん挫した状況だ。

 ●「安ければ乗る」という消費者心理を実証した西鉄バス  ところが福岡の西日本鉄道が始めた100円バスはどうも軌道に乗りそうな勢いなのである。1999年7月に試験的に福岡市の中心部でスタートしたが、ことし4月には本格運行に移行し、100円区間は福岡市周辺や北九州市など数十路線に大幅拡大した。  当初「現行の180円の運賃を100円に値下げするには乗客が1.8倍に増えなければ採算が合わない」としていたところ、半年後に利用者はちゃんと1.78倍にまで拡大した。「安ければ乗る」という消費者の心理をものの見事に実証してみせ、いま西鉄は100円バスの成功に自信をみせつつある。

 100円バスの試みは東京武蔵野市が1995年11月から始めたものだ。民間委託による「ムーバス」と呼び、当初は「お年寄りに町に出てもらう」ためのコミュニティーバスを目指した。バスは28人の乗りの中型車両で200メートルごとに停留場を設けた。  たが、誰でも乗れるということで、市民の足となり、結果的に昨年度黒字化に成功してしまった。バス会社を定年退職した元運転手を中心に運行しているのが黒字経営の秘訣だそうで、安価で市民の足を確保することはやり方次第で可能であることを全国に知らしめた。

 ●ハワイのバスは全島均一で1ドル  だがこんなことに驚いてはいけない。シカゴ在住の藪さんから昨年もらったメールではハワイでは全島1ドル均一だというのだ。ハワイのバスの料金は一律大人1ドル、子供50セントで、島の端から端まで乗っても均一。オアフ島の北海岸と南側を結ぶ路線は一周4時間で、利用客が多く、便数も多く常に満席だそうだ。  シカゴでは市バス、地下鉄、エル(高架鉄道)は共通の乗車券(プリペイドカード)で、一律料金の1.5ドル。オヘア空港からダウンタウンまで地下鉄で45分の距離でも、1.5ドルということだ。サンフランシスコでは一定の時間内ならば、一枚の乗車券で何回でも乗車できるという便利なシステムもある。

 100円というワンコイン方式のバスはすでに日本全国50近い地域のバス会社が何らかの形で導入しているが、まだまだ経営的に認知されたとは言えない。当初は行政の財政的補助が必要かもしれないが、補助金頼りでは長続きしない。定年退職者の採用だけでなく、MKグループの構想にある路線タクシーなど自由な発想で既存業界以外からの自由な参入を認めることが100円公共交通機関の成功のかぎを握ることになるはずだ。

原点は土佐山アカデミー

最近、伴さんの原点はどこにあるのですかと聞かれることが少なくない。即座に答えるのは「土佐山アカデミー」「なぜ」「そりゃ、アカデミーは僕のために始まった山暮らしの講座だったからよ」7年前の5月、妻と土佐山をドライブしていた。高川から道を下っていると行く手の山の上に奇妙な建物をみつけた。なんだろうと道を上っていくと土佐山アカデミーの看板があった。ドアを開けると3人の若者が僕らを迎えてくれた。内野加奈子、山本堪、林篤志。アカデミーって何を目指すのか聞いた。「100年先の日本を考える組織です」その言葉に新鮮な感動を覚え、その場で7月からのアカデミーへの入学を申し込んだ。高知に帰って何をしたらいのか迷っていた時に、100年先の日本を考える学校に入るきっかけを作ってくれたのはこの3人だった。7月から3カ月土佐山に住み込むことになった。高知県の森林面積は84%と日本一だが、土佐山はほとんど森林以外にない。見渡す限り森林だ。よけいな広告は一切ない。高知市から車で30分のところに緑の楽園を見出した思いだった。そこから僕たちの炭焼きが始まり、七厘社による木炭の販売がはりまや橋商店街の金曜市で始まる。さらに鏡地区の古老と知り合い、山菜の販売も仕事となる。鏡で見出したのはシイタケ栽培とクレソンだった。中でもクレソンは夏場以外は通年商品になる。水さえあれば種も肥料もいらない。栄養価の高い野菜が自然に育っている。一束100円で販売を始めると、クレソンは金曜市でなくてはならない商品の一つとなった。一昨年から僕はクレソンを鏡の特産品にしようと考え、畑を借り水を引いて、3つのクレソン田を開墾した。クレソン田は今、春の光を浴びてすくすくと育っている。

原点は土佐山アカデミー

最近、伴さんの原点はどこにあるのですかと聞かれることが少なくない。即座に答えるのは「土佐山アカデミー」「なぜ」「そりゃ、アカデミーは僕のために始まった山暮らしの講座だったからよ」7年前の5月、妻と土佐山をドライブしていた。高川から道を下っていると行く手の山の上に奇妙な建物をみつけた。なんだろうと道を上っていくと土佐山アカデミーの看板があった。ドアを開けると3人の若者が僕らを迎えてくれた。内野加奈子、山本堪、林篤志。アカデミーって何を目指すのか聞いた。「100年先の日本を考える組織です」その言葉に新鮮な感動を覚え、その場で7月からのアカデミーへの入学を申し込んだ。高知に帰って何をしたらいのか迷っていた時に、100年先の日本を考える学校に入るきっかけを作ってくれたのはこの3人だった。7月から3カ月土佐山に住み込むことになった。高知県の森林面積は84%と日本一だが、土佐山はほとんど森林以外にない。見渡す限り森林だ。よけいな広告は一切ない。高知市から車で30分のところに緑の楽園を見出した思いだった。そこから僕たちの炭焼きが始まり、七厘社による木炭の販売がはりまや橋商店街の金曜市で始まる。さらに鏡地区の古老と知り合い、山菜の販売も仕事となる。鏡で見出したのはシイタケ栽培とクレソンだった。中でもクレソンは夏場以外は通年商品になる。水さえあれば種も肥料もいらない。栄養価の高い野菜が自然に育っている。一束100円で販売を始めると、クレソンは金曜市でなくてはならない商品の一つとなった。一昨年から僕はクレソンを鏡の特産品にしようと考え、畑を借り水を引いて、3つのクレソン田を開墾した。クレソン田は今、春の光を浴びてすくすくと育っている。

孫文の片腕、陳其美

 陳其美(1878‐1916) 宋教仁とともに孫文の片腕として辛亥革命に尽くした政治家。二人とも袁世凱が送った刺客に暗殺された。1916年5月18日、陳其美は上海フランス租界の山田純三郎の家にいた。山田は後に雑誌「改造」に「ちょうどその時刻も外から帰って来た。二階に上がり泊まり込んでいる胡漢民と碁を打っていた。そこへパンパンとピストルの音だ。陳其美はコメカミをやられ、家の女中が耳をかすられて、抱いていた二歳の女子民子をたたきの上におとして、その子は未だに気が変になることがある」と書き、「これで第三革命と吾々が名付けるものが幕を閉じた」と付け加えた。
 刺客を送った袁世凱は翌月病死した。1カ月生き延びれば、中国革命の行方は変わったかもしれなかった。
 陳其美は浙江省湖州府(現在の呉興区)の商家に生まれ、1906年に日本に留学し、蒋介石と出会った。中国同盟会に加入し、清国留学生のために東京芝に設立された東斌学堂で軍事を学んだ。
 2年後、帰国して、浙江省や北京、天津などで同盟会支部組織を立ち上げるなど頭角を現した。1909年には浙江省で蜂起を計画したが失敗。1910年、上海に戻って革命派の新聞「中国公報」「民声叢報」を立ち上げる一方、青幇など地下組織との関係構築に努めた。
1911年10月10日の武昌起義に呼応して、翌11月3日、上海で蜂起し、3日後には滬軍(上海軍)都督に担ぎ上げられた。 上海軍は12月、江蘇省、浙江省の革命軍などとともに南京になだれ込み、清国軍を制圧した。
当時の革命軍は武昌派と上海派に分かれ、誰をリーダーとするかで対立したが、陳ら上海派が優位に立ち、アメリカにいた孫文を南京に迎え入れることとなった。翌年1月1日、孫文は中華民国の成立を宣言し、自ら臨時大総統に就任した。
 1911年3月、袁世凱が臨時大総統に就任し、陳は工商部長に就任したが、まもなく辞任した。
 1912年8月、中国同盟会を中心に国民党が結成され、翌年3月の国会選挙で圧勝したが、国民党の実権を握っていた宋教仁が暗殺され、袁世凱の独裁が始まった。  1913年7月の第二次革命では陳は再び上海討袁軍司令官となり、上海独立を宣言した。しかし、9月に第二革命は失敗し、日本への亡命を余儀なくされる。
陳其美が歴史にその役割を残したのは、後に国民党を率いることになる蒋介石を見出したことである。日本で出会った二人はその後も信頼関係を築いた。 1911年の上海蜂起で、帰国したばかりの蒋介石は陳に命じられて杭州方面の革命軍決死隊に参加し、初陣を果たし、直ちに滬軍第二師第五団の団長兼軍事顧問に命じられた。第二革命でも蒋介石は第五団の団長として上海蜂起に参画し、孫文の眼にとまることとなった。 1914年、孫文が再起を画して日本で起こした中華革命党では陳は総務部長として実務を取り仕切った。中華革命党は、中国国内で東南、東北、西南、西北の4つの革命軍を編成、陳其美は東南軍司令官に任命され、上海での反袁活動に力を注いだが力及ばす第二革命は失敗した。

北海道が独立したら(AFF1995年4月号掲載)


 しんしんと冷え込む2月下旬の夜、若い農水省の役人とビールを傾けていた。省内ではなかなか天下国家を語るチャンスがないと嘆く人だから、当然、日本国のあり方に話が及ぶ。空の缶ビールが10本も並んだころ、彼は突如としてひらめいた。

 「国を出て、国を作ればいいんだよ。そうしたら日本の規制から逃れられる」
  「自治体の独立だな」
 「そうだ。大前さんが道州制なんていって連邦制を提唱しているけど、規制緩和ひとつできない政府がそんな大胆なことできるはずがない。万一やっても何10年かかるかわからない」

 1ドル=100円という円高が続けば、農業どころかハイテク産業だって崩壊しかねないというのがお互いの問題意識だから、急にビールのピッチが上がった。1ドル=500円ぐらいの為替交換率を実現したら、一人当たりGNPは5000ドル前後(当時NIESは1万ドル前後)となる。

 「教育水準が高くて日本語が通じる投資国」として売り出せば、NIES諸国より有利な地位になる。もしかしたら農業だって国際的競争力を回復できるかもしれない。当然ながら国からの補助金は切れるが、海外投資導入のためのインセンティブを作れば資金はある程度、外国に依存できる。

 まず「日本国憲法は武力の行使を認めていないし、知事の要請がないと自衛隊は出動できない。だから一方的独立をしても自衛隊は何もできない、簡単な住民投票で独立できそうだ」という点で一致したことだ。

 さらに杯を重ねた。アメリカも英国の規制から逃れるため分離独立した。日本だって徳川時代の諸藩は半独立状態で独自の通貨を持っていたり軍隊を持っていた。当初、沖縄などは明国にも使節を送っていた。
 そこでどこが一番独立しやすいか考えた。彼はつぶやいた。「北海道だな」

 うん、経済規模としてもほどほどだし、何より道路などインフラ整備が比較的進んでいるのは有利だ。高速道路や新幹線はまだまだだが、ハブの役割を果たせる24時間体制の滑走路4000メートル空港の存在は大きい。農業も本土のように反当たりなんてけちな単位を持ち出さなくて済む。

 市場開放で「将来がまっくら」といっている雪印乳業も明るい光がさす。室蘭中心の鉄鋼関連も息を吹き返すこと請け合いだし、主力の紙パルプ産業どころか、ひっとしたら炭鉱も復活するかもしれない。ビールがなくなって水割りに移ったころ、僕たちの間で北海道国の未来は輝きはじめ、具体的国家作りに入った。

 そもそも本土のがんじがらめの規制から逃れるための国作りだから、北海道国のキーワードはアダム・スミスに立ち返って「レッセ・フェール」となる。政体は大統領制を中心とした連邦国家とすることに決まった。

 なぜ連邦制かといえば、ほかの本土の自治体が参加しやすいように考えたからである。ワシントン・アップルと競争したければ青森県だってすぐに参加できる。秋田県が「あきたこまち」をカリフォルニア米と同じ土俵で戦わせる意思があれば連邦政府は歓迎する。国名は決まっていないが「連邦」をつけることだけは譲れない。いずれ国民投票の対象になるだろう。

 北海道のいいところはまだ開拓精神が残っているところだろう。そもそもアメリカと同様に本土で食えなくなった移民で発展した地域だ。首都は札幌でなく、中心の旭川に置き、札幌はニューヨーク並みに経済の中心として残ればいい。最高裁は帯広、議会は函館が候補地として上った。三権分立だ

 国語はどうすればいいのか。彼は当然ながら日本語を主張した。国旗はアイヌの神様である「ふくろう」をあしらうことを条件に公募する。国家は札幌オリンピックの歌となったトワエ・モアの「虹と雪のバラード」が適当だろう。僕たちは18世紀後半のワシントンやジェファーソンのように国の将来を語り続けた。

 通貨名だけは決まった。「ピリカ」。美しいという意味のアイヌ語だ。補助通貨は「マリモ」でもいいが今後の検討課題として残った。大切なのは通貨の切り下げだけだ。切り下げなくして独立のメリットはまったくない。産業の競争力を回復できないからだ。僕が口火を切った。

 「1ドル=300ピリカ程度だろうか」
 「そんなに北海道経済が強いはずがない。貿易黒字のもとになるハイテク企業や自動車工場なんてなんいだから」
 「それもそうだ。そうすると1ドル=500ピリカぐらいかな」。
 「そんなもんだろう」
 「もうそうなったらすごいことが起きるぞ。牛乳なんてのは日本で1リットル40円ぐらいで売れることになる。価格破壊のダイエーなんて真っ青だよ」
 「それはおもしろい。北海道の独立は本土の生活者の生活水準のレベルアップにも役立つというわけだ」
 「問題は本土の政府が、ウルグアイ・ラウンド農業合意を続けるかぎり関税はめちゃくちゃに高い水準のままだからな」
 「そんなことはない。そもそも乳製品の保護は北海道を中心とした生産者が求めたものなのだから、そこが独立したらもはや高関税を維持する意味はなくなる」
 「どうなるか分からないけど、一挙に国際競争力を回復することだけは確かだ」  もめたのは初代大統領と閣僚メンバーだった。北海道が独立すれば、本土の政党再編に乗り遅れた横路知事はいずれ戻ってくるだろうが、この人だけは地元を捨てたのだから権利落ちにしたい。個人的には新しい器には新しい人材が必要だから、岩国哲人あたりが立候補すれば当選するのではないだろうかとも考えたが、やっぱり出戻りでも横路大統領なんてことになるのだろうということで落ちついた。  独立の日時は、1995年閏8月しかない。中国では古来、閏8月に革命や政変、天変地異が起きると信じられている。戦後50年の8月15日はちょうどいい区切り。本土と50年も付き合えばいいだろう。それに右肩上がりの本土の経済は終わり、これから地方への補助金が増えるような状況ではないから潮時だ。

 宮沢りえも早く、りえママに引導を渡して自由になればいいのに。なんちゃって。  果てしない議論が続き、やがて東の空を白ずんできた。そしてはっと、目が覚めたら自宅のベットに横たわっていた。 続きはhttp://www.yorozubp.com/a/

租と税の違いの深い意味

 租税はふだん聞き慣れたことばであるが、「租」と「税」と分けると別の意味があるのだそうだ。律令制度の時代の話である。小堀邦夫氏『伊勢神宮のこころ 式年遷宮の意味』を最近読んでなるほどを思わされることが多くあった。その一つが「租」と「税」だった。  租庸調はワードでも一発変換できる。律令制度時代の税制であることぐらい中学生でも知っている。租庸調のうち「租」はおコメで納めるもので、「庸」は労働力、「調」は絹などの特産物である。だがそこに「税」という文字はない。律令制度で「税」は特別の意味を持っていたのである。

 延喜式に伊勢神宮は20年に一度建て替えることを定めてある。「太神宮は、廿年に一度、正殿と宝殿及び外幣殿を造り替へよ。(その経費は)神税を用ひ、もし神税足らずんば正税を用いよ」と書かれている。ここでは「租」と言っていない。わざわざ「税」と言っている。


 小堀氏によれば、「税」は租を貯えたものであると解説している。少し古いが養老令の税についての定めについて「穀物類が祖として役所に納められ、穀倉で 何年か保管されると税と呼びます」と説明している。養老令の「蔵倉貯積条」に「凡そ倉に貯み積まむことは、稲、穀、粟は九年支へよ。雑種は二年支へよ、糒 (ほしい)は廿年支へよ」。  糒(ほしい)は飯を干したもので乾飯((かんい)ともいう。現代のアルファ米に似たものでお湯で戻して食べ る。コメを蒸して飯とし、それを寒風で乾らすことによって、重さは軽く、体積は小さくなるため貯蓄にすぐれた資源だった。糒は旅の常備品だけだったのでは なく、飢饉のときの備蓄米でもあったのだ。  日本の古代における租税制度のすごさはまさに「税」にあったといっても過言でない。2年、9年、いな20年という長いスパンで備蓄して、それこそ「想定外」の事態に対応するものだった。昨今に政府とは発想がまったく違う。   天明の飢饉を目の当たりにした米沢藩主の上杉鷹山はその2年後に、「二年間に籾米五千俵、麦二千五百表ずつ、二十ケ年の間相備へ候様」と命じた。50年後 の天保の飢饉で一人の餓死者をも出さなかった話は有名だが、古代の律令時代の「税」の発想が1000年後にも記憶されていたといっていい。いまの霞ヶ関官 僚と民主党政権に煎じて飲ませてやりたい。

 実は、小堀氏が言いたかったのは、なぜ式年遷宮が20年に一度なのかという疑問に対する根拠 についてであった。古代において、20年備蓄する糒は高床式の校倉に貯えられていた。神税はまさに糒のことであって、20年ごとに入れ替える。想定外のこ とがなければ、めでたく新しい造営の費用がまかなえることになるというのだ。がってん! がってん!  【解説】その後、こんな興味深い解説がありましたので紹介します。
     http://shimo.exblog.jp/6536521/  租税の「租」と「税」


民主党は租税特別措置(租特)の必要性を検討するために実施した聞き取り調査の結果だそうだ。租税特別措置とは、本来納めるべき税金をおまけする優遇措置、国税分だけで300近くもあるという。

ところで、租税の『租』はどんな字だろうか。ついでに『税』についても考えてみよう。一対で見たほうが面白いから。
まずは「租」


『租』は、「禾」(稲)の形と「且」(物を高く積み上げた形)との合わせ字。
収穫した作物を、上にどんどん積み上げるように次から次へと徴収するお米。説文解字(許慎)には「田賦」とある。すなわち、年貢米のことです。
では、「税」のほうはどうか。
『税』は、「禾」(いね)と「兌」(よろこぶ) の合わせ字。
もとは、小作人の収穫から刈り分けて納めさせる稲を「税」といいましたが、いつも、渋い顔で年貢を取り立てる役人でも、米を見ると喜ぶということで「ねんぐ・税」の意味を表しました。ふつう、年貢としては、「米、麦、大豆」などの作物を納めました。
時には、こうした皮肉も言いたくなりますよね。その上、これだから下村式の漢字は面白いし、子供に喜ばれて学びたがるわけです。

ポトマック桜に込めた思い

2012年に萬晩報でサクラを特集したことがある。ポトマック川の桜並木については、尾崎幸雄の特別な思いがあった。 http://www.yorozubp.com/yorozu/2012/03/3017.html
 駐米大使の藤崎一郎氏が、47NEWSに「桜と外交官」という玉稿を寄稿している。霞ヶ関にある外務省のあたりのサクラから解き明かし、今年100年を迎えるワシントン、ポトマック川の桜並木を回顧している。http://www.47news.jp/47topics/e/226712.php

 当時の東京市長の尾崎行雄ばかりが注目されるが、アドレナリンの発見で世界的な知名度があった高峰譲吉が大きな貢献をしていたことを最近知って驚いたことがある。しかし当時のワシントンにやってきた水野幸吉ニューヨーク総領事の話はしらなかった。寄稿によると、

 水野総領事が所用でワシントンに出張したとき、アドレナリンの発見者でニューヨーク日本人社会のリーダーの高峰譲吉博士もちょうどワシントンにおり、博士もシドモア女史と旧知だったので3人で集まった。1909年4月8日のことである。シドモア女史が、「タフト夫人がポトマック河畔を美しくしたいと1週間前に言い出したので日本の桜を薦めたら、ちょうど前日の7日に夫人が同意して桜を集めるように指示が出たところ」と打ち明ける。

 高峰博士は、かねがね移民排斥など米国内の反日感情の高まりを懸念しており、日米友好のシンボルとしてニューヨークのハドソン河畔に桜を植えることについて同市の当局者の説得を試みていた。そこで、ただちに「では自分が1000本を贈りましょう」と申し出たらしい。途中で2000本に増やしたとシドモア女史は書いている。これに対し水野総領事は、せっかくの機会であり、個人からではなく日本の首都、東京市長の名で贈るべきであると主張した。

 シドモア女史は4月10日には、タフト夫人に取り次ぎ、タフト夫人は「喜んで東京市長からの贈り物を受ける」と述べた。20年間も進んでいなかった桜植樹の話が、大統領夫人の鶴の一声のおかげでとんとん拍子に進むことになった。米国内で調達できる桜の本数が限られていたし、予算面もあり、渡りに舟ということだったようだ。

 戦後の逸話になるが、尾崎行雄は1950年春、91歳の老躯に鞭打ってワシントンに渡った。名目はポトマックのサクラを見ることだったが、5月27日の講演でサクラにかけた思いを重ねて次のようなことを話した。 「わたしは残る生涯を二つのことのために捧げたい。日本の真の民主化と世界の廃藩置県を行って世界政府を樹立することである」

国民への脅し?

水道の民営化を進める政府の説明でよく出てくるのが「水道管の法定耐用年数」。「40年を過ぎて老朽化」という表現もある。実は40年は水道管の寿命ではなく、減価償却のための基準として定められた会計上の年数にすぎない。現実に100年以上使用している明治時代の水道管もあり、40年未満で事故を起こす水道管もある。堺市上下水道局のHPでは下記のように書いています。「水道管の耐用年数は、地方公営企業法施行規則により法定耐用年数として40年と定められていますが、土壌など埋設環境により寿命は異なります。」「堺市では、水道管の更新については、土壌と水道管を接触させないように防食対策を施している水道管は、60年から90年で更新を行い、防食対策を施していない管路は、40年から60年で更新することとしております。」日本の水道普及率は97.9%。管路(水道管)の総延長距離は地球16周分の66万㎞。厚労省は「管路の法定耐用年数は40年」「改修を要する年間更新率は全国平均で約0.75%」と報告し、「全ての管路改修を終えるまでに130年かかる」と試算。水道事業関係者は、水道管の改修費を1億円超/kmと見積もっている。つまり政府によれば66兆円もかかることになる。老朽化した水道管の取り換えが自治体にとって巨額の負担になるというのは国民への脅しにも聞こえる。(文責:伴武澄)

第138回夜学会「社員全員に『木を植えた人』を贈った社長」

3月29日(金)の夜学会のテーマは「社員全員に『木を植えた人』を贈った社長」です。時間は午後7時から場所ははりまや橋商店街イベント広場講師は伴武澄http://www.yorozubp.com/9909/990921.htm 1995年の年賀状で「去年読んでおもしろかった本」として3冊を上げたことがある。その1冊にジャン・ジオノの「木を植えた人」と書いた。南フランスのプロヴァンスの荒れ地に毎日100個ずつ木の種を植え、森をよみがえらせた老羊飼いの話である。 こぐま社の「木を植えた人」の初版は1989年だから古い本である。いくつのも出版社から翻訳され、ビデオもできたというからすでに読んでおられる読者も少なくないだろう。 森がしげると雨が地中にたまり、やがて川となり、人々が住み着くようになる。たった一人の地道な努力でも何十年続けることで、自然が変わり、町までができてしまう。そんなおとぎ話のような話だが、きっとどんな人のこころにも慈雨のようにしみ込むことだろうと思う。 先日、資生堂の広報の人と話をしていて、この「木を植えた人」が話題になった。福原義春会長が、社長だったときにこの本にいたく感動して、自費で社員全員に配ったというのだ。 福原さんは資生堂の創始者の孫に当たる方だが、父親は経営を引き継がなかった。だからどこかの会社のような二世、三世社長ではない。実力で社長になった人だと信じている。アメリカ資生堂の立ち上げで食うや食わずの苦労をし、社長に就任した直後に、販売子会社につけ回していた大規模な在庫を買い戻した英断で80年代後半、マスコミでも取り上げられた。 その時の言葉は忘れたが「子会社に在庫を押しつけて親会社の決算をきれいに見せかけても仕方がない」というようなことだったと思う。今年から日本でもようやく導入された連結決算という考え方を10年まえからすでに持っていた。おかげで資生堂は大規模な減益決算を余儀なくされ、当然ながら連続増益記録も途絶えた。バブルの真っ最中の出来事である。 90年代には化粧品の値引き販売が始まり、河内屋の樋口社長らにより価格拘束という独禁法違反で告発された。カネボウやコーセーなども同時に告発されたが、トップ企業と言うことで矢面に立たされた。当初、資生堂は裁判で徹底抗戦する構えだった。 福原さんは筆者が取材を通じて知った経営者の中で数少ない信頼できるトップの一人だった。それまで正義の福原が一転マスコミでたたかれる対象となるのだから、構造改革というのはむごい部分もある。そんな感慨を持って、福原さんの真意を問うためにインタビューを申し入れたこともある。 会社経営がすべて善行によって行われるとは思っていない。社会的規範も時代のすう勢によってどんどん変わるから、前の時代に当たり前のことであっても、当たり前でなくなることも多くある。1990年代は日本という国の中で企業経営に対する価値観が恐ろしいほどに変わっていった。そんな時代だったのだと思う。 企業の経営とは、そんな価値観の変化をどう先取りしていくかが問われる役割であるはずだ。日本がバブルに酔っていた直後に、この「木を植えた人」を社員に読ませていた社長がいたということは嬉しいことだった。 萬晩報は福原さんに断りもなく、「木を植えた人」を贈るに際して社員にに添えた一文を転載したい。私たちの資生堂は間もなく120年の誕生日を迎えます。人生と同じように、会社も好調のとき、苦しいときを何回も何回も経験しながら、大きく育ってきました。1987年には経営改革のスタートを切り、1年前の1991年2月5日には21世紀の発展を見据えたグランドデザインを策定し、いまその軌道を走るスピードを上げつつあります。このときに、皆さんとともに1冊の本をあらためて読んでみたいと思いました。ことばは心を運びます。私はこの「木を植えた人(ジャン・ジオノ著)」という本をかりて皆さんに私の心を贈ろうと思います。そして私自身がこの本を大切に「木を植えた人」の心を考えつづけます。この本を私とともにはたらく全社員のみなさんに贈ろうと考え、そのことを出版社であるこぐま社の佐藤英和社長さんに相談しました。佐藤さんも私の気持ちに感動してくれたのです。私から言えば、この本を見つけ、苦労して版権を得て日本語の出版をした佐藤さんも「木を植えた人」の1人です。私たちもいっしょに、まず会社に中に木を植え、そして会社のはたらきを通じて社会に木を植えていきたいと思うのです。お元気で。  福原義春